パリ8月16日のエフェメリス:ブローニュの森で待ち伏せされたレジスタンス戦闘員たち

発行元 Manon de Sortiraparis · 掲載日 2021年8月16日午後04時03
1944年8月16日、パリ解放の数日前、フランスのレジスタンス戦士たちはブローニュの森で待ち伏せされ、SS将校とフランスのゲシュタポに射殺された。

パリ解放が順調に進んでいた1944年8月16日、パリ、シュル、モンフェルメイユのレジスタンスの若者35人がドイツ軍の待ち伏せを受け、ブローニュの 滝のふもとで射殺された。

この悲劇的な事件が起こるまでの数週間、国民抵抗評議会とパリ解放委員 会の呼びかけに応じ、何万人ものフランス人が公然と広範な抵抗に参加した。8月15日にプロヴァンス地方に上陸し、イル・ド・フランス地方の城門に連合軍が到着したというニュースによって、彼らの期待は高まった。

地下組織CGTの呼びかけに従った鉄道労働者のゼネスト(8月10日) 金属労働者、郵便労働者、電気通信労働者のゼネスト(8月13日)、国家憲兵のゼネスト(8月15日)、パリ警察官のゼネスト(8月15日)と続いた。フランス全土で反乱的なゼネストが起こった。

このような熱気の中で、レジスタンスの闘士たちが、不足していた武器や弾薬を求めて出発した。こうしたレジスタンスの中でも、特にパリ13区のサン=マルセル教区のグループ、ジュン・クレティアン・コンバタン(Jeunes Chrétiens Combattants)の活動は活発であった。

これらのJeunes Chrétiens Combattants(若いキリスト教徒の戦闘員)は、パリや郊外の他のレジスタンス組織から仲間を連れてきた。そこで、市民と軍隊組織(Organisation Civile et Militaire)、フランス内戦軍(Forces Françaises de l'Intérieur)、フランツ・タイヤールとパルチザン(Francs-Tireurs et Partisans)の若いメンバーは、武器の受け取りと共有に参加することに同意した。

しかし、国防軍の諜報機関であるAbwehrの2人の諜報員が ネットワーク指導者の間に潜り込み、2人の英国諜報員を装って、彼らに武器を迅速かつ大量に供給しなければならなかった。

1944年8月16日、 レジスタンスの3つのグループはポルト・マイヨ近くの3つの集合場所に集まった。SSの諜報・法執行機関であるSDの諜報員や フランス・ゲシュタポの諜報員に途中で捕らえられた 35人のレジスタンス戦闘員は、同日夜、ブーローニュの カスケードに連行され、銃殺された。FFIのメンバーである7人のレジスタンス戦闘員も8月16日、16区のルルー通りにあるゲシュタポ本部の前で銃殺された。

1946年7月6日、処刑された人々の遺体が発見された場所に記念碑が建てられた 殉教者35名の名前が記念碑に刻まれている。また、 「通行人よ、この樫の木に敬意を払え:我々の殉教者を殺した銃弾の跡がある」と刻まれた記念プレートが、35人のレジスタンス戦士を殺した銃弾の跡がある樫の木に貼られている。

実用的な情報

所在地

Bois de Boulogne
75116 Paris 16

アクセス
地下鉄10号線 "Porte d'Auteuil "駅または9号線 "Ranelgah "駅。

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写真 : © Polymagou / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0

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